【書評】田山花袋「蒲団」はモテない癖に受け身なおっさんが、逃した魚の大きさを嘆く話【青空文庫】
概要
家庭があり知識も分別もある、世間に名を知られた中年の作家の女弟子への恋情―花袋(1871-1930)が、主人公の内面を赤裸々に暴き立て、作者自身の懺悔録として文壇に大きな衝撃を与えた、日本自然主義文学の代表作。客観描写を利用して、教え子に抱いていた竹中時雄の赤裸々な内面感情が告白される。蒲団に残った女の残り香をかぐ最後の場面は余りにも有名。
アマゾン商品紹介より引用
舞台は明治37年~39年、著者の田山花袋も新聞記者として従軍した、日露戦争の最中に起こった出来事。妻子もあり社会的地位もある作家・竹中時雄の元に小説家を目指す女学生・横山芳子が弟子入りする所から物語が動き始めます。
主な登場人物
・竹中時雄…妻子も社会的地位もある中年作家。著者・田山花袋がモデルとなっている。私のイメージでは「マンガ家の蛭子さん」が頭に浮かんでおります。
・横山芳子…熱烈な竹中時雄ファンの若い女学生。竹中に弟子入りすべく単身上京。「華やかな声」「艶やかな姿」と評される事から、私の中では「ゆとりですがなにか」の「吉岡里穂」がイメージされております。
・田中…横山芳子の彼氏。中背の少し肥えた色白の冴えない男と評される事から、私の中では「柄本明の息子」がイメージされます。
あらすじ
熱烈なファンである芳子が時雄に弟子入りすべく単身上京。妻との倦怠期にうんざりしていた時雄にとって、青春時代を取り戻したような瑞々しい時間を過ごすが、芳子に彼氏ができると嫉妬のあまり二人の仲を引き裂き田舎に帰らせて、残された部屋で一人咽び泣く…と言うものです。
ストーリーとしては大した起伏もなく、描写は全て時雄の視線を通したもので、文章もほとんどが時雄の心情を語ったものです。
そのありきたりな物語が、なぜ日本文学界に燦然と輝く名作と呼ばれるかと言うと、時雄のモデルである田山花袋の、おぞましいまでの醜さを余す所なく抉り出した圧巻の豪筆に他なりません。
この作品は所謂「私小説」と呼ばれる、自分をモデルにした作品の先駆けと言われています。
社会的地位のある田山花袋がここまで内面を曝け出した事が、当時の文壇に与えたインパクトは凄まじく、我も我もと追随し自分の私生活を切り売りする作家が続出した事からも、その衝撃が推し量れると思います。
時雄のおぞましさ
時雄はモテない中年です。
出勤途中に美しい女教師を見掛け「一緒にデートしたいな」「ラブホいきたいな」と妄想するだけでなく、妊娠中の時雄の妻が「難産の果てに死んだら後妻に迎えたいな」など、とんでもない想像をするのが唯一の楽しみと言う程の蛭子さんっぷりです。
当初、芳子から弟子入り志願の手紙を貰った時も「ブスやったらイヤやな」と、返事の手紙に「写真送れ」と書いて、さすがにそれはないと思い直し黒く塗りつぶす程度の卑小な精神の持ち主です。
実際に上京してきた芳子が殊のほか美人だった事に浮かれて、自分からは何も行動を起こさないけど、向こうから何かアクションがあれば私も満更ではないですよ~とモテないクセに受け身なのが腹立たしくもあり、どこか同族嫌悪の感情を呼び起こされるのです。
時雄は芳子を押し倒すチャンスが二度あったと自己申告しています。
一度は「私は田舎に帰ります」と手紙を受け取った時、もう一度は下宿先の芳子を訪ねた時に、すぐに帰ろうとすると「まだいいじゃないですか」と引き留められた時なのですが、私には、どこをどう縦読みしても脈ありには読み取る事ができませんでした。
芳子に彼氏ができて…
芳子に彼氏が出来てから話は急展開します。
それまでは穏やかに過ごしていた時雄ですが、激しい嫉妬で煩悶とした日々を過ごし酒を飲んで暴れ、妻に激しい八つ当たりを繰り返すようになります。しかしここでも芳子に対しては「もしかして…」の一分の望みを捨てきれず、表面上は若い二人の理解者を演じます。
どうせ無分別な若い二人だし相手も冴えない男だから、その内に別れるだろう。ただでさえ脈ありなんだから、そうなればまた自分にもチャンスが巡ってくる。と自らを棚に上げポジティブ思考で正気を保つ時雄。
芳子に対し師匠の立場から「淑女であれ」とアドバイスすると見せかけた「セックスするんじゃねえぞ」と圧を掛け続けるのですが、それも虚しく二人の交際はエスカレートし、とうとう芳子が処女ではない事を知った処女厨の時雄は、ブチ切れて両親に言いつけるという暴挙に出ます。
結婚前に男女交際など、とんでもないと言う当時の時代背景から、あわれ芳子は田中との仲も引き裂かれ文学者になる夢も志半ばで、父親の手で故郷へと連れ戻されてしまうのです。
誰もが知ってる圧巻のラストシーン
芳子が常に用いていた
蒲団 ――萌黄唐草 の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟 の天鵞絨 の際立 って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅 いだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽 ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
薄暗い一室、戸外には風が吹暴 れていた。
文庫本104ページ
自分が追い出した芳子の部屋に入り、使っていた寝巻を着て蒲団の匂いを嗅ぎ咽び泣くと言う圧巻のラストシーン、これこそが蒲団を永遠の名作として君臨させている理由の全てと言っても過言ではありません。
寒い風が吹く薄暗い部屋で若い女の匂いを嗅ぎながら悶絶しつつ咽び泣く…これほどまでに五感を擽っただけでなく、その上の第六感までビンビンに刺激する文章があるでしょうか。
これほどまでに、今までの話を完全に前フリにしてしまう程の破壊力を持ったラストシーンを私は知りません。これを気持ち悪いとか変態だとか言えるような清廉潔白な男など、この世には存在しないと私は思います。
まとめ
今回は、あらすじからラストシーンまで、浜村淳ばりにネタバレしまくりの書評になってしまいました。しかし「蒲団」のラストシーンはあまりにも有名だし、あらすじを知った程度で面白さが損なわれる程度の凡作ではけっしてありません。
田山花袋をモデルとした時雄のおぞましく卑小で醜劣な内面の描写は、不快ながらも我が身を顧みて「自分は時雄を笑えるのか?」と自問自答する機会を与えてくれる最高の文章だと私は思います。
ちなみに芳子と田中も実在の人物をモデルとしており、田山花袋によって引き裂かれた二人ですが、その後も周囲の妨害工作にもめげず遠距離愛を育み、後年、結婚して家庭を築いたと言う事実が、何ともこの「蒲団」に絶妙なオチを付けてくれています。
Kindle版ならびに青空文庫だと無料で読めますので、機会がありましたら是非どうぞ。
マンガ版もありますよ